酒飲みって?

「酒飲み」ということ。コロナの影響で、ずいぶんと「家吞み」が増えたと聞く。自分自身を振りかってもそうだ。毎日、飲んでいる。世間では「休肝日」を作りなさいと言われているが、それを知りつつも飲んでいる。自分で自分に言い訳しているときもある。言い訳をするということは、この習慣は良くないことだと知っているようだ。まあ医師も、そういうことを言うから、医学的にもあてはまることなのだろう。
「休肝日を作らないといけないのですよね?」と聞いたとき、「そんな必要はありませんよ」と答えてくれたのは帯津良一医師だけだった。私は、「そうです」という答えが返ってくるだろうと、頭を抱えていたのだ。ところがそんな小言は降ってこなかった。先生も一日、熱燗二合と決めて、日々精進されていたからだ。しかし、同士が生まれると、嬉しくなるのも人間の常だ。
 かかり付け医は、血液検査の結果を見て、中性脂肪が高いのはお酒のせいでしょうと言う。それを聞いた私は、中性脂肪が異常値になったら、酒をセーブすればもとにもどるのだろう、くらいに高をくくっている。
 原始未開のころの人類は、獲物をとったときや、節目節目で饗宴を催したという。ケが「日常」で、ケガレは「ケ」が枯れていく状態で、その「ケ」が一気に解放されるときが、「ハレ」だと文化人類学では言う。ケ→ケガレ→ハレ。ハレ→ケ→ケガレという循環が日常を覆っていたと。どのくらいのスパンで、それが循環していたかは分からない。まあ、毎日、饗宴を開いていたわけでもないだろうが、小生には、それが一日の中で起こっているように感じ取れる。朝はハレだ。それが日常の時間の始まりで、やがてケに変わっていく。ケを継続していると、それがカレて、ケガレになる。お昼を過ぎるとだいぶケガレてくる。やがて太陽が西に沈み、夜の帳が降りる頃、ハレの時間がやってくる。これは自分の中に流れている縄文人の血ではなかろうか。
 まあそれもこれも「言い訳」かもしれない。「言い訳」で、「いいわけ」なかろう、と言われそうだ。しかし、〈ほんとう〉の意味で、「酒飲み」とはどういうことを言うのだろうか。それが分からない。一日の適量はビールだと何ミリリットルとか、言われているが、果たしてそれを毎日飲めれば「正しい酒飲み」なのだろうか。一日、日本酒を五合も飲めれば、「〈ほんとう〉の酒飲み」なのだろうか。上を見れば切りが無い、下を見ても切りが無い。
自分では、それほどの量を飲んでいるわけではないから、まだ「酒飲み」と称してはいけないのかもしれない。嗜み程度のことだから、別にどうということもない。しかし、「〈ほんとう〉の酒飲み」とは誰のことなのだろうか。まだ私は会ったこともないし、まだその存在を知らない。この文章を読んで、呆れているひともいるだろう。また、ホッとしているひともいるだろう。何だ、高尚なことを書いているようだけれど、所詮、「煩悩の愚か者」じゃないかと。
 でも、そう思われたら、私の書いたことも浮かばれるのだろう。安田理深先生は、「菩薩とは弱点だらけの人間のことだ」と言われていた。そうなると私は、弱点のひとつをさらけ出すことができたのだから、菩薩に少しだけ近づけたということだろう。弱点をもった人間を見るとき、ひとは「見下す」という煩悩が満足するので、ホッとされることだろう。少しでもホッとされたなら、それで私は満足なのだ。