私のケツに生えている、一本一本の毛の本数までも、阿弥陀さんは御存じだったのか!と今朝、思った。自分でも数えたことがないのに、そんな微細なところまで御存じだとは、まさに感服だ。またそんなことが感じられる「武田定光」が、素晴らしいとも思えた。「武田定光」の一番のファンが、「武田定光」だったのか。
世間では、それを自惚れとか、自画自賛とか、自慢とか、独りよがりとか言っている。でも、本当に惚れることができるものが、〈ほんとう〉の自分自身ではないか。
自慢という欲望の底を突き抜けていくと、〈ほんとう〉に惚れることのできる自分と出会える。まあ出会えると言うと正確ではない。〈ほんとう〉の自分だと思った瞬間に、〈ほんとう〉の自分は視界から逃げてしまうから。それを直視することができない。それでも、〈ほんとう〉の自分が一瞬にして通り過ぎていった後の雰囲気だけは確かに感じ取れる。これがまた〈真実〉の薫りだ。
いままでは「自分という噂」で「自分」を見くびっていたようだ。この見くびりを突き破って、〈ほんとう〉の自分が顔を出す。一瞬の出会いであるが、その薫りを嗅いで、空前絶後の〈いま〉を呼吸する。