「カムカヘル」考

コロナ騒動が、少しずつ収まり、娑婆は「日常」を取り戻してきた。法座も、だいぶ対面形式が復活してきた。小生は、オンラインは苦手で、どうしてもライブ一本に絞ってきたから、「なぜオンラインはやらないんですか」などと問われることもあった。これもなかなか上手く答えられないんだが、やはりライブが好きとしか言い様がない。「話し手」は、あくまで楽器で、奏者は「聴衆」だから、両者がその場で同じ空気を吸っていなければ、法話という演奏会(ライブ)は成り立たない。会場まで足を運ぶことができないひとをどう思っているんだと問われると、返す言葉もない。
 いま、「真宗入門講座」のテープ起こし原稿の校正をしていて思いついたことがある。それは「考える」という言葉の意味をだ。語源辞典を見ると「かんがえる」は「1、カは発語。カームカフル(対)義。事件に相対して推し定める意〈古事記伝・大言海〉。2、此を彼に対比して思いめぐらすところから、カムカフ(彼対)の義。〈雅言考〉。」(『日本語源大辞典』)などとあった。
 そういう文脈で柳部章も『翻訳学問批判』の中で、こう述べている。
「『考える』の語源は『カムカヘル』である。今日の言葉で言う、『むかえる』である。目の前の、ある慣れていないものと向き合う、あるいは、二つもしくはそれ以上の違ったものを、向かい合わせるという意味である。
『おもう』とは違う。人は、その『おもう』ものと一つになる。『恋人を想う』とき、想われているものは、複数ではなく、全体として一つであり、想う人に対して距離を置いた他の存在ではない。
『考える』は、ある異質な存在を前提とする。その点では西欧の哲学や科学で『考える』のと、共通の出発点に立っている。だが、それから先の『考える』筋道の構造は違っている。私たちが『考える』とき、その筋道の行く先は、はじめから分かっているのではないだろうか。いわば、結論が最初にある。そのような『結論』は結論ということばにふさわしくない。私たちの『考え』は前提から結論へたどる筋道をたどらない。もとにもどるようにみえながら、循環するような道をえがいていく。」
私たちの意識作用を、「思う・感じる・考える」という言葉で表すが、「思う・感じる」と「考える」は違っているようなのだ。「思う・感じる」はまだ意識作用の深層にあって、それがやがて表層に浮上してきて「考える」というとこになるようだ。だから「二つもしくはそれ以上の違ったものを、向かい合わせる」という意味になるのだろう。「カ」が「此を彼に対比して思いめぐらす」(雅言考)というのだから、「此」と「彼」が明確に対比していなければ、「考える」にならない。「思う・感じる」はまだ、その二つが明確に意識されておらず、「考える」に到ってようやく、二つの違いが明確に意識されるということだ。
 いま厄介なことを私が述べたのが、「考える」ということの本質だろう。そうなると、「考える」までに深層から浮上してくるまえの「思い・感じる」が先にあることになる。それが深層で、醸成しきて、発酵が進み、ようやくふつふつと「考える」にまで吹き上がってくるようだ。もともと一体になっていたものが、やがて分裂を繰り返し、二つに分かれることで「考える」になる。「死」という観念も、そうだろう。本来、生と死は一つのことだから、人間が「考える」ことはできない。それがやがて分裂させられ、「カムカウ」状態になって、「死」という観念が成り立つ。
 つまり、人間が「考える」ことができるのは、二つに分けた後のことで、分けられたものは、もはや〈真実〉からズレているということだ。
 「往生」ということも、「往生した」から、「往生していない〈いま〉」を生きられる。「往生」もしていないのに、「往生」を目指すことはできない。目的にハッキリ到達したから、その目的に向かって生きる方向性が決まるのだ。
これも「考える」と「往生していない〈いま〉」と「往生した」とが二つに分かれてしまう。しかし、〈真実〉は、一つのことを語っているのだ。「往生したという過去」と、「往生していない〈いま〉」が一つのこととして理解できなければ、それは〈真実〉ではないのだ。
 阿弥陀さんの本願が、本願だけであれば、それは理想主義だ。本願が〈真実〉だと証明されるのは「本願成就」があるからだ。「本願」は「往生していない〈いま〉」であり、「本願成就」は、「往生したという過去」だ。それが一つの固定したことではなく、つねに動き詰めに動いている運動というのが、〈ほんとう〉なのだ。他ならぬ、〈私一人〉を救うために。