昨日は三年ぶりに開催された「秋葉原親鸞講座」だった。聴講者のお顔を拝すると、懐かしいお顔が多く、やはり皆さん、対面での、つまり「ライブ」の聴聞空間を待ち望んでおられたのだと感じた。やはり、「ライブ」がいい。オンラインでは決して味わえないものが聴聞空間だ。いつものことだが、「お話」とは、私が楽器であり、聴聞者が演奏者である。楽器からどのような演奏が弾き出されるのかは、演奏者である聴聞者次第だ。それも、この世で一回こっきりの、幻の如き演奏が、この夜の展開する。これは実に不思議だ。
もちろん、演奏者と楽器が向いている方向は、〈真実〉である。みな共に、〈真実〉に向き合い、〈真実〉のハーモニーの中に包まれる。話し手と聞き手とが、共同で作り上げる聴聞空間の旨味である。真宗門徒は、この旨味をこころの栄養にして生きてきた人間なのだろう。
昨日のテーマは、「〈真・宗〉は『念仏もうしそうらえども』から始まる宗教」だった。これは『歎異抄』第九条の問題であり、煎じ詰めれば「問いの中に答えあり」ということだ。弟子の唯円房が、恐る恐る師・親鸞に向かって、「お念仏がかつてのように喜べなくなったのはどうしたことでしょうか」という疑問から始まっている。これは信仰のマンネリズムの問題である。信仰とは、必ずマンネリズムに陥る問題であり、このマンネリズムから初めて信仰が出発するような問題である。大乗仏教でも、「七地沈空」と言われてきた問題だ。菩薩道は「一地」から出発して「十地」という修行の階梯を経て、「等覚」、さらに「妙覚」へと登り詰める道だと言われる。その「七地」から「八地」へと登る段階には、「七地沈空」という難関があると言われる。まあ一言で言えば、信仰のマンネリズムだ。信仰が当たり前の状態になり、喜びが消えてしまう状態だ。
これは親鸞も体験した難関であり、唯円房の問いに対して、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と答えている。結論を急げば、唯円の感じている不審と親鸞のいう不審は似ているけれども違っている。唯円房は念仏を称えても何の喜びも感じないので不安になっているが、親鸞は逆に、それが「いよいよたのもしくおぼゆるなり」と安心しているということだ。なぜならば、親鸞は念仏を称えてどのような感情が起こってくるかは、阿弥陀さんにおまかせしているのだが、唯円房は、自分に問題があると考えているからだ。まあ親鸞の論理展開は、こうだ。本来は喜ばなければいけないのだが、喜べなくさせているものがある。それは煩悩であり、阿弥陀さんは、私を「煩悩の者よ」と呼んで下さり、この「煩悩の者」をこそ救ってあげようと願われている。よって、煩悩が盛んに起こっている私こそが、救われるのだから安心だと展開する。
だから念仏を称えてどのような感情がやってくるかは、阿弥陀さんまかせだと親鸞は考えている。それを親鸞は「煩悩の所為」と語っているのだが、その裏には阿弥陀さんが張り付いている。煩悩一つも自分の力で起こすことはできない。すべては阿弥陀さんの引き起こしてくださる仏法だから、自分には何一つ無関係と親鸞は知っている。しかし、唯円房は、そうではなかった。念仏を称えて嬉しいと感じられないのは、自分に問題があると思っている。自分の聞き方が悪いとか、自分の聞法経験が浅いと考えてしまった。この受け止め方を「自力」と言う。すべてを自分の責任だと受け止め自閉していく方向性だ。裏を返せば、自分の努力次第では、念仏が喜びに転換できるのではないかと傲慢にも思っている状態なのだ。親鸞は「自力」を「我が身をたのみ、我が心をたのむ。我が力をはげみ、我が様々の善根をたのむ」と吐露している。自分では何もたのんでいないように思っているのだが、たのんでいるのだ。たんのでしか生きられないから。しかし、それが結論ではない。「自力」には、自力を動かしている他力がある。それは阿弥陀さんだと親鸞は知っている。阿弥陀さんが関わって下さっているのだから、頼もしいし安心していられるのだ。まあこのカラクリを唯円房も気付いたのだろう。それだから、この救いの論理展開をここに記すことができたのだろう。
もうひとつ言えば、この論理展開は、いままで「念仏して、喜んで往生する」のが浄土真宗だと言われてきたけれども、それは「方便」だということを表している。第九条の後半では、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」と言っている。ちょっと病気でもすれば死ぬのではないかと不安になるのも、阿弥陀さんのおはたらきだというのだ。むしろ、「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたもうなり」と言う。つまり浄土へ往生したいと思わないものをこそ、お目当てにされているのが阿弥陀さんだと言うのだ。そうなると、親鸞が第十五条で「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくならい」と言っていることが、霞んでくる。これは表層の、と言ったら語弊があるが、浄土往生物語の総論という意味だろう。浄土往生とは何ですかと問われたときの、単刀直入な応答の仕方だろう。他にも「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏もうさば仏になる」という第十二条の言葉もあるが、これも総論としての応答だろう。第九条の言葉で言えば、「天におどり地におどるほどによろこぶべきこと」として、総論として説かれる。つまり「教義」である。信仰そのものは「教義」を超えるものだから、「一文不通のもの」が生きる世界だ。「無義をもって義とす」(第十条)であり、何ら人間の理屈も要らない世界だ。しかし、「教義」はその「一文不通のもの」の直感を「言葉」の世界へ還元するものだから、面倒な手続きがいる。これはもとを辿れば阿弥陀さんが、「南無阿弥陀仏」という言葉を選択されたことから起因する問題だ。信仰には、言葉などは不要だ。しかし、不要だということを自覚するためには、やはり言葉が必要というような問題なのだ。
親鸞は教義としては、「天におどり地におどるほどによろこぶべきこと」であるけれども、自分の実感としては、そう感じられないと述べて、「教義」の正当性ではなく、自分の実感を確かなものとして確保した。これが大事だ。自分の直感や違和感を誠実に守る。自分の違和感に嘘をつかない。「武士は食わねど高楊枝」とか「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと嘘は言わない。自分に起こってきた煩悩を丁寧に、そして誠実にいただいていく。なぜならば、自分に起こってきたどんな些細な思いや、感情も、阿弥陀さんが起こして下さる「教え」だからだ。
親鸞は「自分」という思いが、阿弥陀さんによって解体されているのではないかと思える。つまり「諸法無我」だ。事物には自我はない。人間の自分が思う「自分」という思いにも自我はない。「自分」と思うように思わされているだけだ。どこにも「自分」という実体はない。まあ阿弥陀さんがひとりばたらきをされているだけだ。この「阿弥陀さん」という言葉も、「非人格の法性」を擬人化しただけのものだ。そうやって自己を解体してくれるのが、〈真実〉のはたらきだ。〈真実〉とは人間の思いをことごとく解体して、つねに第三の扉を開いてくれるものだ。
それでは病気をして死にたくないと思うのも、どんな悪いことを思おうとも、それでよいなら信仰など、もともと必要ないではないかと思われるかもしれない。しかし、それは違うのだ。そうやって思うことが、「自分で思っている」と思うのか、「自分に思わされて思っているのか」という受け止めが百八十度違うのだ。
「たかが南無阿弥陀仏」だが、「されど南無阿弥陀仏」なのだ。