ようやく、『「死」観の解体』(まっさん塾講演録第10巻)が発刊できた。内容はともかく、表紙が気に入っている。「死」という文字にヒビが入って壊れていくイメージだ。「死」という言葉はあっても、誰もそれを本当には知らないということだ。いままで知っていた「死」というイメージが解体され、「カイロス」の時間が生まれる。
「カイロス」の時間とは、信仰の時間であり、この時間が人間に開かれることを阿弥陀さんは望んでいる。「クロノス」の時間は時計で計れる時間のことだが、「カイロスの時間」は、譬えて言えば、「クロノスの時間」の逆回転である。「クロノスの時間」が過去から現在へ、現在から未来へと進むイメージだとすれば、「カイロスの時間」とは、それの逆転だ。
如来回向の信心とは、ある時点に回心の体験を得て生まれるものではない。それは「クロノスの時間」で回心を見る見方だ。親鸞も「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」(『教行信証』総序)と言っているが、「クロノスの時間」のなかで「たまたま」と言っているのだ。「たまたま」とは、言わば「偶然」だが、「遠く宿縁を慶べ」は永遠の過去からの必然性を喜べと言っていて、これは「必然」だ。人間にとって如来回向の信心は「偶然」としてしか感じられないが、如来から見れば、それは「必然」以外では成り立たないということだ。「偶然」は「クロノスの時間」、「必然」は「カイロスの時間」だ。
「いま」偶然に感じたことが、実は「必然」の中の出来事だったという逆転が「カイロスの時間」だ。「クロノスの時間」は流れるが、「カイロスの時間」は流れない。「いま」回心に気付いたとすると、それは「永遠の過去」から気付いていたことだったと逆転する。「偶然」が、「必然」へと逆転する。
「明如来本誓応機」と正信偈にある。「如来の本誓、機に応ずることを明かす」と親鸞は読んでいる。「機」とは人間のことだから、「クロノスの時間」にある。「クロノスの時間」にある「機」に、如来の誓いが応ずるのだ。応ずるとは、逆転である。「クロノスの時間」から「カイロスの時間」へと質的転換を起こす。
「たまたま行信を獲ば」を補って言えば、「たまたま〈いま〉行信を獲ば」であり、それに対して「すでにして悲願います」(『教行信証』化身土巻)と応じる。人間にとっては、すべてが「いま」であるが、この「いま」に出遇うと、それを覆すかのように、「すでにして悲願います」と応じてくる。〈いま〉という「偶然」が、〈すでにして〉という「必然」に逆転する。こうなってくると、私はまだこの世に誕生していないのかもしれない。「誕生した」と過去形で語ろうとする意識が解体されてくるからだ。「カイロスの時間」は流れないのだから、「過去形」は存在しない。「過去形」は意識にしかなりたたない。事実は「過去形」が成り立たない世界なのだ。これこそ「カイロスの時間」が生み出す利益ではないか。